「差別的」表現に血眼になる人々
LGBT(性的マイノリティー)について「生産性がない」と持論を述べた杉田水脈議員が、今、轟々(ごうごう)たる非難を浴びています。
一方で、発言全体の真意をきちんと汲み取れば、べつに問題のある発言ではないとする意見も多くあります。
私は『新潮45』に掲載された杉田議員の寄稿文を読んではいないので、記事そのものへのコメントは差し控えたいと思います。
でも、杉田議員の国会演説は私も聞きましたが、意見としては、大変良いことをおっしゃっているとも思いましたよ。
ただ、いちおう自民党という看板を背負っているわけですから、そこはもう少し、杉田議員の側に配慮があってよかったかもしれません。
意見全体を見れば悪いものではないとしても、揚げ足取りに血眼になっている連中が都合よく切り取って喧伝(けんでん)するのは目に見えているわけですから。
そして必ず最後には、「アベガー」と言い出すわけですね。
「要するに安倍が悪い、安倍が、アベガー!」と。
これがもし、野党の議員だったら、ここまで叩かれないでしょう。
とにかく、彼らは「アベガー」につなげたくて必死のようです。
LGBTの人たちだって、反安倍、反自民の道具に利用されて、いい迷惑なんじゃないでしょうか。
それにしても近年は、「言葉狩り」の度が過ぎるように感じています。
90年代に入った頃から、そんな傾向がありました。
筒井康隆さんの「断筆宣言」も、思い出されます。
ご存じない世代の方は、検索してくださいね。
昔からちょっとした表現で、差別だなんだと騒ぐ連中がいるのですが、それが最近は、異常なまでの勢力に膨れ上がっているような気がします。
日月神示を著書に引用する際にも、気をつかいました。
日月神示には、“差別的”と取られるであろう表現なんか、たくさんありますよ。
そもそも、差別という言葉についても、
「平等愛とは、差別愛のことぞ」「差別、則(そく)平等と申してあろう」
などとあるんですから。
「平等とか公平とか申すのは悪魔の罠であるぞ。天地をよく見よ、人民の申すごとき平等も公平もないであろうがな、一寸伸びる草もあれば一尺伸びる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの」
ともあります。
自然界を見渡せば、今の人たちが言う「平等」なんてものは、存在しません。
人間社会における「差別」とか「いじめ」などは、たしかに正さなくてはいけない部分もあるでしょうが、あまりに極端になり過ぎると、逆に良くない結果をもたらすと思います。
この文章も、かなり気を遣って書いていることが、おわかり頂けるでしょうか。
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